子育て・教育

潮来の歴史

原始・古代

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 潮来地方に人びとが定住するようになったのは、縄文時代早期(9,000~7,000年前)からといわれ、狭間貝塚をはじめ塔の上・貝塚・横山・塙・原堂・御殿山・前野・吹上などの遺跡が現存しており、縄文時代の生活をうかがい知ることができます。
 水田耕作をともなった弥生時代末期の3世紀後半から、6世紀後半までは多くの古墳が築造され、市内にも御安台・日天月天・塚原・観音寺・浅間塚・稲荷山・立金・後明・天王原・田の森・甕森・棒山・水原・大生など多くの古墳や古墳群があります。
 この時期は大和朝廷の東国経営が急速に進展し、潮来地方もその拠点の一つとして比較的早く開発されました。それは『常陸国風土記』の記事や、現存する多数の遺跡などからも想像できます。
 大化の改新後、地方の行政区分として郡、郷、里が設けられ、『和名抄』によれば行方郡は17の郷から構成されていました。潮来市内の地域を当時の郷にあてはめると、香澄郷(永山・清水・牛堀・上戸)、八代郷(茂木・堀之内・島須・築地)、板来郷(潮来・辻)、大生郷(延方・水原・釜谷・大生)、逢賀郷(大賀)になるといわれています。この地方制度は中世に若干の変動はありますが、新市成立前の旧町村の原型になっています。
 この頃、国府(石岡市)から鹿島神宮への通路にあたる潮来には「板来の駅」(いたくのうまや)が置かれたほど交通の要所でした。それは中世から近世を通して変わらない地域的な特色でもあります。

中世

 鎌倉、室町時代を通して行方郡内を支配したのは、桓武平氏の流れをくむ常陸大掾氏(ひたちだいじょうし)の一族で、行方(後に小高)・島崎・麻生・玉造の地名を苗字とした諸氏は「行方四頭」と呼ばれ、郡内に勢力をふるいました。潮来地方は郡内で最大の勢力を誇った島崎氏の支配下にあり、城跡や菩提寺の大興山長国寺などから、当時の面影をしのぶことができます。
 一方、源頼朝は文治元年(1185年)潮来に海雲山長勝寺を創建して武運長久を祈願しました。そして、元徳2年(1330年)先の執権北条高時が長勝寺に寄進した銅鐘(国重要文化財)の銘文(めいぶん)から、風光明媚(ふうこうめいび)で水上交通の要所として繁栄した当時の潮来の様子が想像されます。
 戦国時代の末期になると、豊臣秀吉の権力を背景にした佐竹氏が次第に勢力をのばし、天正19年(1591年)2月、およそ400年間当地方を支配した島崎氏は、「南方三十三館」と総称された行方・鹿島郡内の諸城館主と共に滅ぼされてしまいました。しかし、佐竹氏の支配も長くは続かず、関ヶ原の戦に勝利した徳川家康によって慶長7年(1602年)秋田へ移封されました。

近世

 江戸時代の潮来地方は、御三家の水戸藩領(旧香澄・八代・潮来・津知・延方地区)と、外様大名の麻生藩領(旧大生原地区)に分かれていました。この二藩による分割支配は江戸時代の初期から、明治の廃藩にいたるまで続きます。
 江戸時代の村の大多数は現在の大字(おおあざ)に相当する小さな農村でしたが、潮来村は例外で実質的には在郷町でした。村内は一町目、二町目、三町目のように区分され、各町内には年寄(としより)がおかれ、年寄の互選による庄屋と各町内の年寄の合議によって村政が行われました。
 当時、潮来は下総の佐原と並ぶ水運の要所で、東北諸藩から江戸へ運送される米・海産物・材木・その他の物質は潮来を経由して運ばれました。そのため最盛期には年間400艘もの荷船が出入りしたといわれます。その繁栄ぶりは、水戸藩が御用金制度をはじめた元禄13年(1700年)に、潮来の商人の献金額が藩全体の三分の一を占めたことからもうかがい知ることができます。
 潮来が水運の基地として栄えた時期には遊郭や引出茶屋が軒を連ねる賑わいぶりで、江戸方面から多くの文人墨客が来訪し、数々の作品を残しています。その頃、牛堀河岸も「風待ち港」として潮来と同様に繁栄しました。
 一方、江戸時代には、新田開発によって広大な農地と村落が形成されました。対岸の十六島をはじめ、二重谷(幕府領)・大洲・徳島(水戸藩領)などの開発はその例で、水郷の穀倉地帯が造成されたのです。
 幕末期の潮来地方は、水戸藩の潮来郷校や潮来陣屋が設置されたため、天狗派と諸生派の党争の場となりました。幕命を受けた麻生藩兵や佐倉藩兵は、潮来におし寄せ郷校や陣屋、そして多くの民家を焼き、潮来地方は大きな被害を受けました。

近代・現代

 江戸幕府が倒れて、明治新政府が誕生し、明治4年(1871年)の廃藩置県で旧水戸藩領の村むらは水戸県、麻生藩領の村むらは麻生県となりました。しかし、同年11月の統合で潮来地方はすべて新治(にいはり)県に所属し、明治8年に茨城県・新治県と千葉県の一部が統合され、新しい茨城県のなかに組み入れられました。
 明治22年(1889年)4月1日の市制町村制に先立って、全国的に町村の大合併が行われました。潮来地区では潮来村と大洲村が合併し潮来町、辻村と築地村が合併し津知村、延方村は1村でそのまま延方村、水原村・釜谷村・大生村・大賀村の4村が合併して大生原村となりました。牛堀地区では牛堀村・永山村・堀之内村・茂木村・清水村の5村が合併し香澄村、上戸村・島須村の2村が合併し八代村となりました。この合併により市域には1町5村が成立したのです。
 その後、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・第二次世界大戦の時代を経て、日本の社会は大変化をとげました。特に第二次世界大戦後の急速な社会・経済の発展のなかで、昭和30年(1955年)に再び全国的な町村の大合併が実施されました。その結果、潮来町と津知村・延方村・大生原村の1町3村が合併して新潮来町が、香澄村・八代村の2村が合併して牛堀村(同年11月に町制施行)が誕生しました。
 町村合併後、まもなく鹿島臨海工業地帯の造成がはじまり、潮来町はそのベッドタウンとして、また工業地帯の隣接地域として発展を続け、牛堀町では町活性化の起爆剤として工業団地の造成を実現しました。
 平成11年(1999年)、国は地方自治の確立をはかるため、「地方分権推進計画」を発表し、県も翌12年12月に「茨城県市町村合併推進要綱」を示しました。これより先に「潮来町・牛堀町合併検討協議会」などで十分検討を重ねてきた両町の合併問題は、この時期に急速な進展をみせました。その結果、平成13年(2001年)4月1日、牛堀町が潮来町に編入合併して「潮来市」となり、行方郡内で最初の市が誕生しました。
 新生潮来市は合併の目的である行財政の合理化と効率化、行政サービスの向上など、広い観点からのまちづくりを着実に進めています。

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